コラム

column

いつでも、あなたは最善を尽くしている

日々のセッションを通じて、いろんな方の「人生の一部」を共有させていただいていると、後悔や自責、憂いや罪悪感など、誰もがその時々でさまざまな思いを抱くのだな…と、実感します。

「何が正解だったのか」

それが、数学の問題のようにポンと回答できるようなものであれば、おそらく人はさほど悩みを抱えずに済むでしょう。
それがわからないから、人は悩む。

Aという選択をし、Bという表現で他者へ伝えたが、それがどこまで的確に伝わったのかは、わからない。
そんな時、一人になった部屋で沸々と湧いてくるのは、「それで本当に良かったのだろうか…」という不安かもしれません。

「何が正解だったのか」

その問いに、明快な答えなど、きっとなくて。
確かにあるのは、「正解かどうかはわからないけれど、その時その瞬間の自分にとっては、それが精一杯の決定だった」ということなのではないか、と思うのです。

あの時、もっと自分が冷静だったら、もっと大人でいたとしたら、もっと強い人間だったら。
その選択をしなかったかもしれない。
そしたら、結果は今とは違っていたかもしれない。
そんな思いが湧くこともあるでしょう。

けれど、その時その瞬間の自分にとっては、Aという選択をすることやBという表現で伝えることが、精一杯だった。
それが、シンプルな事実で。

「何が正解だったのか」

その問いに答えることを自分に求めていくのではなく、「正解はわからないけれど、精一杯生きている自分」を、ただそのままに感じてみる。

時に感情に飲まれながら、時にグルグル渦巻く思考に絡まりながら、それでも、自分なりの正解を求めて精一杯生きている、私。
そういう「私」をただ感じてみると、とても静かに、とても柔らかに、自分を見守っている「もう一人の私」に、気づくことができます。

後悔や自責、憂いや罪悪感、さまざまな思いを抱えながらも、今日をまた必死に生きている、私。
その私を、慈しむように労わるように、見つめている、もう一人の私。

生きていくというのは、選択の連続で。
そして、今や何につけても、「自己責任」という言葉が飛び交う時代。
「何が正解だったのか」という問いに、私たちがぶるぶると震えてしまうのも、当然なのかもしれません。

「正解かどうかはわからないけれど、その時その瞬間の自分にとっては、それが精一杯の決定だった」

それで、いいんだよ。それで、間違っていない。
大きな大きな「もう一人の私」は、震える「私」に、そう言います。

あなたの中にもきっと、柔らかに微笑みながらそう伝えてくれる、「もう一人のあなた」がいる。
あなたが、そんな「もう一人のあなた」と出会えることを、祈りながら。
そして、「二人のあなた」に橋が架かり、あなたの中に安堵が広がることをイメージしながら虹

精一杯、生き合っている私たちのこの世界が、今よりほんの少しでも、暖かで柔らかなものになりますように。
そして、そこにつながる一歩を、「私やあなた」がそれぞれの歩幅で、軽やかに踏んでいけますように黄色い花

関連記事一覧